エンジンの耐空性試験[第1話]

JAXAメールマガジン第286号(2017年3月21日発行)
柳 良二

先日、マスコミ紙上に我が国2番目の国産旅客機となるMRJが米国連邦航空局(FAA)の型式証明の取得に難渋しており、同機のエアーラインへの引き渡しが遅れる旨のニュースが載っていた。

私は型式証明の取得がどの程度困難なものか、詳しくは知らない。しかし、東京近郊のホンダ和光技術研究所で同社のビジネスジェット機に搭載されたエンジンの披露式に参加した時にその話を聞いた。

ホンダと言えば、創業者の本田宗一郎氏が自転車に付けるエンジンの開発から始め、オートバイを経て現在の日本を代表する自動車メーカーになった会社である。当然技術オリエンテッドな会社であると思われたし、実際披露式で聞いたホンダジェットエンジンの開発ストーリーは、正に技術者の創造と苦闘の歴史であった。しかし、FAAの型式証明を取得するにあたって、同社のみでは取得困難と判断し、米国のGE社との合弁会社を設立し、そのGE・ホンダ・エアロ・エンジン社として型式証明を取得した。

和光技術研究所には同社のジェットエンジンを製造する全ての機械装置、例えば高温タービンの単結晶鋳造装置やファンを一体で削り出すマシンニングセンターの他、エンジンの耐久性試験を自動で行う運転試験設備まで設置されていた。それでも、型式証明はホンダのみでは無理と判断したのだ。

私が航空宇宙技術研究所原動機部に入所したのは1980年10月1日である。この時期は、1971年に通産省工業技術院の大型工業技術開発制度(通称大プロ)の下で、日本の航空エンジンメーカー3社と航空宇宙技術研究所原動機部が共同で研究開発した高バイパス比ファンジェットエンジンFJR710のプロジェクトが終盤に差し掛かった頃である。また、1977年に開始された航空宇宙技術研究所の特別研究である「ファンジェットSTOL(短距離離着陸)実験機「飛鳥」」の搭載エンジンとしてFJR710が使われることにもなっていた。

そのため、FJR710エンジンは、単に大プロの研究開発の技術実証のみではなく、人が乗る航空機に搭載するために必要とされる耐空性を証明する試験が必要になっていた。もちろんFJR710は商用エンジンとして販売する予定は無く、型式証明取得の必要は無かったが、少なくとも運輸省が定める耐空性審査要領に準拠した耐空性試験は実施する事が必要であった。運輸省の定めた耐空性審査要領はFAAの耐空性審査に沿ったものであるから、当時の原動機部が耐空性を証明するために行った各種試験のエピソードを書くことによって、航空機の型式証明取得の困難さの一端が御理解いただけるかも知れない。

私が最初に携わったのは、燃料による潤滑油冷却装置(Fuel Cooled Oil Cooler)の部品の耐熱試験であった。当該部品は内部を燃料が通る物であるが、それをFAA規格のバーナーで焙って燃料に着火しない事を確かめるものである。当時適合するバーナーは横浜のタイヤメーカーが所有しており、そこまで出向いて、バーナーを借用して試験を行った。バーナーの大きさとしては、スキー場の乾燥室などにある大型バーナーを想像して戴ければ良いであろう。火炎は油彩のレモンイエローのごとく不透明でヌメヌメと輝いており、試験の様子は圧巻であった。

私の業務は当該部品の内部温度を計算により推定する事であったが、計算結果は、試験で計測された供試体温度とは全く合わなかった。使われるバーナー火炎が予想もつかなかったので、通常の対流熱伝達として計算したのだが、あの火炎からすれば、輻射熱伝達とするべきであった、と今ならば思う。しかし、当時の私は大学では伝熱工学は1コマしか取得してなく、上司から伝熱計算用のソースコードをアルミケースに入ったパンチカードで受け取り、予想される表面伝熱量の値をデータとしてパンチカードに打ち込み、計算機センターのジョブに投入し、数日後に出力されるラインプリンターの数字とXYプロッターで描かれた等温線の図を出すことしか出来なかった。今の様にカラーディスプレイも無ければカラープリンタも無い時代である。パソコンはようやく8ビットパソコンが発売されたところで、16ビットのIBM-PCもMS-DOSもWindowsもまだ発売されていなかった。

続く。