エンジンの耐空性試験[第4話]

JAXAメールマガジン第289号(2017年5月8日発行)
柳 良二

この鳥打ち込み装置は、1.5ポンドの鳥4羽を0.1秒間隔で打ち込む試験、比重0.82から0.84の氷球28個を150m/sで打ち込む試験にも使われた。氷の比重は0.92であるから、単に氷を丸く削ったのでは規定比重をもった雹を模擬した氷球を作れない。最初は内部が空洞の氷球を作ろうとしたが上手くできない。試行錯誤して作られたのが、かき氷を作って、それを型に押し込んで規定の直径と比重の氷球を作る、というものであった。入所した時に原動機部の炊事室にかき氷器が置いてあり、何に使ったのだろうと不思議に思ったのを覚えている。また、このかき氷は熱電対温度計の零点としても使われていた。今のように簡便な温度計測機器など無かった時代だった。計測機器メーカーがGPIBインターフェイスを備えた多点温度計測装置を発売したのはそれからずいぶんと後年の話だ。

耐空性試験は、鳥打ち込み試験や雹打ち込み試験以外にも、横風試験や入口乱れ試験、水吸い込み試験、着霜試験、騒音試験などが行われた。横風を作る巨大なドライヤーのような送風機や、入口乱れを作る装置、規定の量の水(空気流量の4%で毎秒約4リットル)をエンジンに吸い込ませるための巨大な水槽など、ともかくエンジンの耐空性試験は航空宇宙技術研究所にとっても、そしておそらく日本にとっても初めての試験であり、メーカーとの協力の下で、審査要領に準拠したエンジン試験を終了しFJRエンジンは無事「飛鳥」に搭載されて飛行試験を成功に導いた。

それから約20年余がたった2004年に防衛省の国産ファンジェットエンジンF7が開発され、大樹町で屋外エンジン試験が行われた。その試験風景の写真の中には、その昔、角田支所の試験場で見たのとそっくりな鳥打ち込み装置や横風送風器、そして騒音試験用の入口整流装置が写っていた。FJR用の試験装置は既に廃棄してあったので、F7のメーカーが新たに作ったものであろう。FJRの製作と試験を行った同じメーカーがF7を作っており、多分当時の経験が生かされたのだろうと思うと、深い感慨が胸を満たした。

私もこの3月31日をもって、JAXA航空技術部門推進技術研究ユニットの非常勤研究員を退任する。その間、FJR710の耐空性試験、高効率ガスタービンプロジェクト、超極超音速輸送機用推進システムの研究開発(通称HYPR)、環境適合型超音速輸送機用推進システムの研究開発(通称ESPR)など、通商産業省工業技術院(現産業技術総合研究所)関係のプロジェクトに携われた。また、独法航空宇宙技術研究所では、豪州での小型超音速ロケット実験機(NEXST-1)プロジェクト、JAXAに統合後はクリーンエンジンプロジェクトと色々な航空エンジン及び豪州でのロケットの打ち上げ試験をも経験できた(※1)
FJRエンジンプロジェクトでは、高空性能試験を英国の高空性能試験設備で行った。それが契機となり、英国のエンジンメーカーから日本側に、エンジンの共同開発の提案があった。多少の紆余曲折はあったが、最終的に、我が国のエンジンメーカー3社が日本航空機エンジン協会(JAEC)を設立し、日、英、米、独、伊の5カ国の国際共同開発エンジンV2500につながった。このエンジンはエアバスA320などに搭載され累計5000台以上が出荷された。

過日開催された日本の航空産業に関するシンポジウムで、JAECのメインエンジンメーカーの伊藤源嗣氏が、日本のジェットエンジンの原点としてFJRエンジンを紹介し、その成果として商用化されたV2500がハイリスクの期間を終え、ハイリターンの時期に入ったと話してくれた。JAECの資料にはその売り上げが計上されている。そして現在では、V2500の後継であるPW1100G-JMが共同開発され、先日それを搭載したA320neoが日本に初お目見えした。FJRエンジンは、商品化はされなかったが、十分にその使命を果たしたのである(※2)。そして、「飛鳥」に搭載されたエンジンは我が国の機械遺産として調布航空宇宙センターに展示されている。

高効率ガスタービンプロジェクトで開発されたガスタービンと蒸気タービンを組み合わせた複合サイクル発電システムは、その後のメーカーの研究開発により、商用発電所が建設される毎にタービン入口温度が上昇し、その発電効率は今や60%を超えている。単純な蒸気タービンのみでは発電効率は40%程度であるから、この複合サイクル発電システムを使えば二酸化炭素の排出量を30%以上削減する事が可能である。ちなみに、燃料の天然ガス化は我が国周辺の海底に眠るメタンハイドレードを掘削すれば自前のエネルギーを持つことができるといわれている。
HYPR及びESPRプロジェクトは、日本としては初めて、海外メーカーと直接委託研究契約を行った国家プロジェクトである。その結果、日本メーカーと海外メーカーとのつながりを強化拡大する事ができた。航空宇宙技術研究所も仏国のONERAやCERP、ドイツDLRなどと共同研究が行われた。この成果は、最新の米国GEnxや英国Trent 1000などで、日本エンジンメーカーがJoint Ventureとして参加する国際共同開発につながっている。また、プロジェクトで試作し運転試験されたラムジェットエンジンとターボジェットエンジンを組み合わせたコンバインドサイクルエンジンは、フォンカルマン賞を受賞した。

私の航空宇宙技術研究所の在職期間は、長いようで短かった37年間であった。しかし、我が国の産業界に貢献できたことは大変な幸運であったと言えよう。

航空宇宙技術研究所原動機部ではエンジンの耐空性試験を行ったのみであり、型式証明は取らなかったが、現在その型式証明取得に挑戦しているMRJの開発陣の苦労はいかばかりかと想像される。今後の高度技術産業として日本の航空産業が世界に羽ばたく為には、ぜひこの困難を乗り越えて、日本の新しい翼を世界に飛び出させてほしいものである。

  • ※1:日本のロケット開発は、1955年の東京大学糸川英夫博士のペンシルロケットから始まったが、航空宇宙技術研究所でも、1961年に原動機部にロケットエンジン研究室が設置されロケットの研究が始まっている。この研究室は1963年にはロケット研究部として独立する。1964年、科学技術庁内に宇宙開発推進本部が設置され、航空宇宙技術研究所もロケット部を中心として多数の研究員が出向した。そして、1969年に宇宙開発推進本部が発展的に解消し宇宙開発事業団が発足した。しかし、独自技術開発派のQ計画が技術導入派の新N計画に変更されたため、航空宇宙技術研究所は事業団のN計画を支援しつつも、先行的独自技術の研究開発に移行した。よって原動機部でジェットエンジンの研究に携わった私が、ロケット打ち上げに携わったのは、先祖返りとも言えるかも知れない。原動機とは熱エネルギーを機械的動きに変える機械動力の源という意味もあり、ロケットも原動機の一部なのだ。
    なお、1955年に発足した総理府航空技術研究所(まだ宇宙の文字は無い)は1963年に科学技術庁が設立された時、科学技術庁航空宇宙技術研究所と名称が改められた。2001年には文部科学省の独立行政法人航空宇宙技術研究所となり、2003年に34年前に分派した宇宙開発事業団と統合された。
  • ※2:後日上司から、FJR710エンジンの飛行試験が終わる頃に海外の機体メーカーから「FJRエンジンはいつ頃リリースされるのか?」という問い合わせがあった、と聞かされた。しかし、当時「飛鳥」に搭載するために航空宇宙技術研究所がメーカーに製作を依頼したエンジン価格は当時の商用エンジンの5倍以上であった。エンジン重量の純金とほぼ等しい価格である。そのためFJRは時に純金製エンジンとも呼ばれた。型式証明を取れば、その費用も含めて10倍を優に超えていたであろう。